熱の主

 

 

 

消毒液で満ちた室内に、微かな硝煙の香りが混じる。

そのことで誰かが来たのだと気付かされたザックスは重たい瞼をゆっくりと開けた。

「セフィロス―」

覗き込むようにして彼の眼前に現れたのは端麗な顔を僅かに顰めている戦友の姿だった。

彼が近付いた瞬間、強くなる香。

「任務、だったのか?」

「いや。ただの演習だったんだが―臭うか」

自身でもその香りを気にしていたのだろう、尋ねられたザックスはふるふると頭を揺らした。

「大丈夫、俺も大して変わらない」

小さな笑みを作ってみせればセフィロスは怪訝な顔をしながらも「そうか」と頷いた。

セフィロスの身体を受け止めるパイプ椅子が悲鳴を立てる。

すぐさまいなくなると思っていたザックスはその音に目を見開いた。

この眉目秀麗な男が長居とまではいかなくとも、まだここに、ザックスの傍にいるつもりがあるのだとその音は彼に知らしめる。

「熱中症だそうだな」

何て情けない病名なのだろう。

いや、病名とも呼ぶのもおこがましいと思う程ザックスはそんなことで倒れた自分に呆れ果てていた。

それでも持ち前の気楽さで『こういう日もあるさ』と立て直しかけた感情を今、この瞬間崩された。

セフィロスという英雄に。

その低く艶やかな声に乗せられた言葉は刃となって相手に向くのだ。

それが例え本人の意図したことではなくても。

「すいませんね。そんなんで倒れて」

自棄になり唇を尖らせるザックスにその原因を作った男は当惑した表情を隠そうともせず首を捻る。

お前の言っている意味が分からない。

言葉に出さなくともその顔が物語っている。

自分にだって言ってる意味なんて分かんねーよ

ザックスは心中でそう吐き捨てると大きな溜め息をついた。

何かを言いたいのか、セフィロスの薄い唇が僅かに開きかけたが結局彼は何の言葉も発しなかった。

ただの熱中症なのにこうしてベッドに寝かされている彼を鑑みてくれたのだろう。

 

横隔膜にまで宿った熱がザックスの呼吸を浅くさせる。

身体中が火照っていた。

額の上に乗せられた氷のうも今では申し訳程度にしか原型を留めていない。

自分が動く度に漏れる水音が彼の神経を逆立てていた。

うっすらと開けた視界に入り込むのは、熱という言葉が縁遠い男の涼やかな横顔。

「なー」

ザックスの見上げる視線にセフィロスは眉を寄せた。

潤んだ瞳の視線が嫌で嫌で堪らなかった。

こうした目をする男が何かを頼む時、自分にとっていいことは起こらない。

必ずといっていいほど。

「お前の手、貸してくんない?」

―ほら見たことか

セフィロスは唐突な物言いに呆れたように目を伏せた。

そして視界を閉じたまま右の革グローブを唇で噛む。

何を言ったところでこの男が諦めたこともまた、無かったのだ。必ず。

露わになった白い指先にザックスの期待は膨らむ。

 

ひんやりとした感触。

自身の熱を吸い取ってくれるであろうその、たおやかな手。

 

けれど頬に他人の存在を感じ取った刹那、ザックスの恍惚とした表情はたちまち落胆の色に変わり果てる。

見上げた先のセフィロスはこうなることを分かっていたのだろう。

口角が腹立たしい角度で持ち上げられていた。

「満足か?」

そう言いながらセフィロスは緩慢な動作で再び手袋に指先を通し始めた。

真っ白なそれが対照的な色に飲み込まれていく。

それを横目にしながらザックスの手が頭の裏で組まれる。

「あーはいはい。お前に俺の熱吸い取ってもらおうと考えた俺が悪うございました」

「それは期待に応えられず申し訳ない。ソルジャーザックス」

「これはこれは我らが英雄殿。ソルジャー1stごときにそんな気を遣わないで下さい」

些細な皮肉の応酬にそれまでかち合うことのなかった彼らの視線から火花が散っていく。

その火を先に消し去ったのはザックスだった。

微かな吐息を漏らし、呟く。

「お前、意外と温かいんだな。手」

しみじみとした物言いにセフィロスの目線が膝に置かれた手元に向く。

「そんなことを言われたのは初めてだ」

「ああ、うん。お前と普段こうやって手繋いだりすることないだろうからな。俺だってこんな状況じゃなかったらお前の体温なんて感じねーよ」

ぞんざいな口ぶりがかえってセフィロスの失笑を買った。

確かにそうだろうな、という相槌にザックスの想像だにしなかった言葉が被さる。

「ごめんな」

今、この瞬間セフィロスがどんな表情をしているのか何て想像は出来なかった。したくもなかった。

だからザックスはそのまま彼を見ることなく淡々と言葉を紡いでいく。

「俺、英雄としてのアンタしか見たことなかったから勘違いしてた。お前だって俺達と変わんないんだよな。

俺達みたいに温かくて当たり前なんだよな。うん、だから―ごめん」

思ったことを言葉にするのは難しい。

それこそ伝えたい思いは届かないことの方が多い。

不安になったザックスが盗み見たセフィロスの表情は苦笑が滲み出たものだった。

「お前は呆れた奴だな」

「その言葉は褒め言葉として受け取っておくよ」

セフィロスはその返答に肩を竦め、笑みを深くした。

そして彼は壁時計に目を向けた後、組んでいた足を元の長さへと戻す。

突然視界から消えたセフィロスの顔にザックスの鼓動が跳ねる。

「行くのか」

「ああ。そろそろ戻らなくては上が煩いからな。英雄がサボっていては示しがつかないと言われてしまう」

『英雄』という言葉に滲む自嘲の影。

「セフィロス」

ザックスは去り行くその背に思わず声をかけていた。

「俺はお前が人間だってちゃんと分かってるからな」

緩やかに振り向いた彼の表情に呆れがありありと見て取れる。

「お前の手が温かいこともちゃんと皆に言っとくから!」

「なら―」

セフィロスは僅かに考え込んだ後「俺の血が赤いこともその皆とやらに言っておいてくれ」と至極真面目な顔で言った。

「は?」

突然の頼みごとに話を持ちかけた張本人が面食らう。

「俺の血は本当は青やら緑なんじゃないかという噂がまだはびこっているらしくてな。煩くて堪らないんだ」

「ああ、そういうことね」

納得した、と頷くザックスの脳裏をよぎるのは神羅に入ったばかりのくだらない風評。

その中心は今目の前にいる青年で、確かにそんな噂が流れていてもおかしくはないなと思う。

あれだけ人並み外れた強さを見せ付けられれば自分達と同じだとは到底考えられなくなるのは当たり前だろう。

「そういや俺もそんな噂聞いたことあるぜ。俺の時は紫だったけどな」

「下らん」

「うんまあ今思えばすげー下らないんだけどガキには信憑性があったんだって」

ほお、と声を漏らし一瞬落ちた沈黙の後見せた表情は人の悪い笑みだった。

「試してみるか?」

悪戯っ子の口ぶりにザックスは込み上げる笑いを抑えながら「遠慮しとく。今の俺じゃお前に返り討ちにされるのがオチだ」とその誘いを断った。

「それもそうだな」

否定することもなくただ淡々と頷いたセフィロスは今度こそ足を出口へと向けた。

別れの挨拶も労わりの言葉も彼が口にすることはないけれど、ただ様子を見に来てくれたことだけが純粋に嬉しかった。

 

その後現れた看護士がすっかり温くなった氷のうを慣れた手付きで取り替える。

もう戻ってもいいかというザックスの問いを笑顔だけで制した彼女が「あら」と声を上げた。

「もうそろそろ熱取れてもいいはずなんですけど、まだ熱いですか?」

「え?」

「ほっぺた、赤いままですよ」

とんとん、と自身の頬を指差す彼女にザックスの指先もその柔らかな肉へと向かう。

きょとんとした表情をするザックスにいささか年上に見受けられる彼女があでやかな笑みを浮かべた。

「誰か好きな人にでも触られたのかしら」

思いがけない言葉に驚くザックスの反応を気に入ったのか、彼女の笑顔は崩れない。

「それじゃあこれが溶けたら呼んで下さいね。そうしたらもう戻っても構いませんからそれまでの我慢ですよ」

「あ、お姉さん」

「はい?」

「そんなに俺、赤いかな。ここ」

「ええ。こっちだけ」

彼女の笑顔はその瞬間、穏やかなものに変わっていた。

 

 

―まいったな

ザックスの瞳に真っ白な天井が映る。

なりを潜めたはずの熱さが彼女の言葉に呼び戻されたのだ。

だるい腕を持ち上げ、彼は再びその根源に手を当てる。

そこに触れた男の玲瓏とした容姿がまなこに浮かんだ途端、その熱が増したように思えた。

この分ではいつまで経っても帰れそうもない。