また明日
扉の閉まる微かな物音を耳にしてザックスのまどろみは終わりを告げた。
眠りの半ばにある感覚が未だ戻ってこないことを鑑みると時刻はおそらく夜半と言っていい頃だろう。
こういう時、彼は夜目が利かない自分に腹を立てる。
もしすぐさま反応が出来れば色々と迷惑をかけなくとも済むのに。
例えば、奇襲をかけられた時。
例えば、突然の停電に包丁で指を切った時。
例えば、明るみを嫌う恋人へ送るキスを鼻にしてしまった時。
寄せられる眉、驚いたように見開かれた瞳、くぐもった笑い声。
戦友で、同居人で、恋人の姿を思い返し彼は小さく溜め息をついた。
一体こんな時間に、何をしようとしているのか。
夜目が利かない代わりと言っては何だが、ザックスは耳が良い。
僅かな物音でも聞き逃すことのないそれは初めてセフィロスに誉められたものでもあった。
その得意の耳を存分に立て、彼が漏らす生活の音を逃すまいとザックスは意識を集中させた。
聞こえるのはセフィロスの足音ではなく、コーヒーメーカーがたてる無機質な機械音。
本当にどうしたのか。
ザックスはようやく明るくなった目でベッドサイドの時計を見た。
時刻は午前3時を僅かに過ぎた頃。出かける準備をするには速過ぎる。
長年の訓練で俊敏に身体は反応するくせに肝心の頭が鈍っていることにザックスは苦笑しながら彼の眠りを妨げた張本人の元へ向かった。
「セフィロス」
その声と共にぎりぎりまで絞られた明かりから一気に部屋全体を照らし出す照明に彼は一瞬目を伏せた。
暗がりからゆっくりと戻ってくる視界にザックスの呆れたような不安気なような複雑な表情が映る。
「何やってんだこんな時間に」
あくまで咎めるつもりはないようで、ザックスの口調は明るい。
「眠れないのか?」
そう問いながら彼は食器棚から取り出したグラスに氷を入れ、滅多に飲まないウイスキーを注ぎ込んだ。
琥珀色の液体がザックスの手によっていかにも美味そうな代物に変わる。グラスを差し出すとセフィロスの唇がようやく動く。
「すまない」
それが『起こしてしまってすまない』なのか『手間をかけさせてすまない』なのかザックスには見当がつかなかったけれど、
恐らくはそのどちらでもあるのだろうと勝手に納得し、彼は短く頷いた。
一口含めば苦味がザックスの喉を通り抜ける。セフィロスはと言えばただ、眼前に置かれたコーヒーカップを掌で弄んでいた。
「それ自分で淹れたのか?」
「ああ。だが、美味くなかった」
渋い顔をしてみせるセフィロスにザックスは小さな笑みを浮かべ「飲みたきゃ起こせば良かったのに」と口にする。
「別に・・・それ程飲みたかったわけじゃない。お前を起こすつもりはなかった」
ポツリポツリと呟き始めたセフィロスの声を彼は黙って聞いていた。
先程まではやけに耳障りな音を立てていたコーヒーメーカーも今ではすっかり存在を消していて、無音の時が過ぎる。
互いの鼓動が聞こえそうだ、とセフィロスが思った瞬間ザックスが口を開いた。
「眠れないのにコーヒーは逆効果だぜ?」
「眠れないわけじゃない」
反射的にセフィロスも声を上げていた。
「ただ」
「ただ?」
「目が冴えてしまった」
そう言って彼は目を伏せた。ザックスは寝起きだからだろうか、益々色を失った彼の目元に物憂げな影を見つけ出す。
「セフィロス」
再び呼びかけるのと同時にグラスの氷が掌の熱によって崩れ落ちた。意外と響くその音にセフィロスが閉ざしていた視界を開く。
それから彼は黙ってグラスに手を伸ばした。白い喉がそれを受け入れ、飲み込む。
息をはいて、セフィロスは小さく笑んでみせた。
ザックスも口元だけを持ち上げ、乾杯というようにグラスを持ち上げた。セフィロスのグラスも一拍置いてそれに合わせられる。
小さなガラス音が響いた瞬間、やっとセフィロスの中に巣食う何かが解氷したように見えた。
「明日、もう今日か。二日酔いにならなきゃいいけどな」
そう言いながらも二杯目を注ぐザックスにセフィロスは苦笑した。
「起こしてはやらないぞ」
「わ−かってるよ」
妙に間延びした言葉にセフィロスの苦笑が益々深くなっていく。
「ソルジャーが揃って二日酔いでは示しがつかないな」
「俺は大丈夫だぞ」
「本人が口にする大丈夫ほど信じられるものはない」
セフィロスは半分程残った、既に薄くなりかけているウイスキーを一気に口へ運んだ。
ザックスの刺すような視線を肌に感じながらも彼は最後の一滴まで味わいつくすようにグラスを傾けた。
「おい」
案の定咎めるザックスが声をかけたがそれをセフィロスは自身でも完璧だと思う笑顔でかわす。
「これで眠れそうだ」
艶美なる顔付きでそう言われてしまえばザックスは無茶な飲み方を叱りつけることなど出来ない。それを分かっているのだろう。
セフィロスは軽い足取りで立ち上がり、グラスとまだなみなみと中身が入ったままのコーヒーカップを水につけた。
勢いよく流れ出る水音が辺りを支配する。
「それ俺が洗っとくからいい。お前はもう寝ろよ」
どうせ寝てないんだろ?と言うザックスがいつの間にかセフィロスの傍らへと立っていた。
彼に似つかわしくないスポンジを奪い取り、定位置へと置きなおす。
「明日に回すつもりだろう」
どうせ起きられないくせに、という皮肉を言外に見出しザックスはわざとらしく眉を寄せた。
「いーの。明日出来なければ明後日やればいいんだし」
「明後日はまだ帰ってきてないぞ」
「じゃあ任務が終わってから洗えばいい」
「いつになるか分からないのにそれをずっとここに置いておくのか?」
信じられないと眉を顰めるセフィロスに彼は快活に笑う。
「今日出来なかったことは明日やればいいし、明日も無理なら明後日がある。無理して急ぐことなんてないんだぜ?
それにちゃんとここに帰ってくるつもりはあるんだろ?」
問いかけではなく確認の声にセフィロスは頷いた。
「なら、いつだっていいだろ」
本当はいつだっていいわけではない。キッチンにいつまでも汚れ物があるのは衛生上どうかとも思う。
今までのセフィロスならば頑としても洗ってしまっていただろう。だがザックスと知り合うようになって、彼はゆとりの意味を知った。
セフィロスは呟いた。
まあいいか、それはザックスと共に過ごすようになってから何度となく口にしていた言葉だった。
それを口に出した途端、瞼の重さを自覚する。
これで本当に眠れそうだ。
セフィロスは再び椅子に腰掛け、今度はコーヒーを啜っているザックスに「もう寝るぞ」と声をかけた。
「おう。おやすみ」
ザックスは軽く腕を上げる。
「お前は寝ないのか?」
「俺ももう少ししたら寝るよ」
「俺を起こすなよ」
「わーかってるっつーの。いいからお前は寝ろ」
しっしっと向こうに行けとジェスチャーするザックスが苦い顔をしていた。
セフィロスはそんな彼に黙って背を向ける。
「セフィロス」
呼びかけられた彼は顔だけをそちらに向けた。笑うザックスがひらひらと手を振っている。
「また明日、な」
その言葉に瞬間瞳は丸くなり、口元が弧を描く。
そうして彼は頷いた。
「ああ。また明日」という言葉と共に。