恋路の果て
鏡に映る色の白さにセフィロスは驚きを隠せなかった。
元々抜けるような色味であることは彼とて否定はしない。しかし、これは流石に異常ではないだろうかとセフィロスは思う。
目を他に向ければ首も多少肉が落ちているように見えた。
そうして最近食事も満足にしていなかったことに思い当たり、眉間に浮かび上がった皺は益々深いものとなる。
原因が分からないわけではなかった。
騒々しい同居人が任務で家を離れてからもう、二週間が経っていた。
世間一般で言う告白を受けたのはその出発当日の朝のこと。
答えは求められなかった。
ただ、知っておいてほしいとだけ彼は言った。
何かを口にしようにもそれは、彼―ザックスの柔和な笑顔に押し留められてしまった。
何を言うつもりだったのかと問われたところで、その時のセフィロスには答えようもなかったけれど。
ただ、あの瞬間感じた心は解き放たれずまだセフィロスの内に鉛のような重さを残している。
それが食欲を無くさせた原因に違いはなかった。
それ以外考えられなかった。
セフィロスの薄い唇から溜め息が漏れた。英雄には相応しくないな、と思った瞬間
咎めるような表情を浮かべる相棒の姿が脳裏に浮かんだ。
心臓が一つ、大きな脈を打った。
目を伏せたところで蘇る姿はザックスのものでしかなかった。
戯れに触れた手の熱さがセフィロスの心に、身体に焼き付いていた。
どんよりとした曇り空を仰いでザックスは緊張を解いた。
晴れでも雨でもないどっちつかずな空を気に入っているわけではない。
ただそれが自身の居るべき場所を象徴するのだから仕方が無いのだ。
ザックスが「帰ってきた」と思えるのは今や故郷の青空よりも曇天、ミッドガルの空だった。
はやる心と対照的に彼の足は進まない。
同居人に会いたくないわけではなかった。
それ以上、許されるものなら駆け出してその身をきつく抱き締めたかった。
俺は結局逃げたんだよな。
ザックスはそう一人ごちて苦笑を浮かべた。
感情を思いのままに伝え、返事も聞かず任務を盾にして逃げた。
そう、自分は怖かったのだ。
セフィロスに拒絶されることが。あの端正な顔が嫌悪に歪むことが。
それでも言わずにはいられなかった。
彼の幸せを祈らずにはいられなかった。
けれど今、どんな顔をして会えばいいのかザックスには分からなかった。
幸いにもセフィロスの眉が曇ることも、蠱惑の声が毒を吐くこともなかったけれど
彼は今まで見せたこともないような幼く戸惑いに満ちた瞳でザックスを見つめていた。
困らせたとザックスが悟るにはその瞳は充分過ぎるものだった。
だからザックスは何も求めたりはしなかった。出来なかった。
セフィロスが幸せになることと自分の恋路の果てが結びつくことは限りなく不可能に思えた。
自分はもっと上手に事を運べると思っていたが、それはあくまで遊びの範囲だったことを彼はその時初めて知ったのであった。
革張りのソファーがセフィロスの体温を吸っていく。
熱は未だに燻っているようだった。
先程から絶え間なく漏れる息がセフィロスの気分を益々重くさせる。
休日なんてない方が良かったと思うほど、思考は出口のない迷路に迷い込んでいた。
横になり、見上げた天井の白が痛い。
僅かに変色しているのはザックスが暮らし始めてからだ。
料理を全くしないセフィロスに代わり彼は中々の腕を時間が許す限りは奮っていた。
その煙などが染み付いたのだろう。思えばこのソファーにも彼が好む香料の匂いが微かに鼻に届いていた。
そう、確実にザックスはセフィロスの生活に侵食している。
それを拒絶しない理由を、答えをセフィロスは聞きたかった。
セフィロスは力なく笑う。
これではまるで恋をした少年ではないか、と。
そうして一つの事実に思い当たり、その笑みは一瞬の内に消え失せた。
その人のことを思うと食事も睡眠も満足にとれないことを恋だと言うのなら、確実に、言い訳も出来ないほど、
セフィロスはザックスに恋をしていた。
けれどこれは恋ではないとセフィロスはかぶりを振った。
恋は幸せになれる代物だから。
ザックスの言葉を真に受けるのなら自分は幸せにならなくてはいけなかった。
けれど今のセフィロスに自身が決して幸福だとは思えなかった。
どくどくと高鳴る鼓動にザックスは再び苦笑する。
ドア一枚隔てた向こうに愛しい人がいるのだと思うと何て身体は正直なのだろう。
セフィロスが居る可能性は高いだろうとふんでいた。
非番だという情報は何処からともなく耳に入り、それならば彼は家にいるはずだった。
寝室に引きこもっているかリビングで小難しい本を読んでいるかのどちらかだろう。
ザックスが望むのは「おかえり」と出迎えるセフィロスではない。
ただザックスの存在をそこにあるものだとして受け入れてくれれば良かった。
僅かな緊張を胸に抱きながらザックスはゆっくりと扉を開けた。
二週間ぶりに我が家に足を踏み入れたザックスは呆れた溜め息を吐き出す。
こんなことなら汚くされた方がまだマシだった。
自分がいなくなってから全くもって変わらない部屋。
汚れ物が一つも無いキッチン。
元々の家主がきちんとした生活を送っていないことは火を見るより明らかだった。
「セフィロス?」
ソファーに顔を埋めている彼の名をザックスは自然と呼んでいた。
「お前、痩せた?」
白銀の髪から覗き見える首筋にザックスの非難の声が飛ぶ。
「おいセフィロス」
肩に手をかけた瞬間にセフィロスは身体を起こした。
翡翠の瞳だけが色を放っていた。
その目に映る自分の姿にさえ欲情する事実に戦慄を覚えながらもザックスはそれを隠すように努めて明るい声を出す。
「悪い、寝てたか」
人が意識を失っているかどうかなんてことは気配で分かるものだ。
それでも自分のことを思いそう尋ねたのだろうと悟ったセフィロスは緩やかにかぶりを振って足を床につける。
「疲れているだろう。何か飲むか」
思いがけない言葉にザックスは面食らいながらもキッチンへ向かう彼の後を追った。
セフィロスの家事に慣れない手が、コンロの火を熾す。
違う、とザックスは思った。
こんな、自分に気を遣う彼を見たいわけではなかった。
「セフィロス」
思わず掴んだ手は冷え切っていた。セフィロスの唇がわななき、ザックスの瞳は瞬かれる。
いつもセフィロスの手はその外見に反してとても温かいものだったのに。
ああ―
漏れる吐息はザックスのもの。
自分は一体何をしているのだろう。
セフィロスの幸せを願っていたはずなのに、祈っていたはずなのにどうしてこんな瞳をさせてしまったのか。
ザックスの指が力無くたおやかな掌から離れた。
盗み見たセフィロスの顔から感情は読み取れなかった。
離れた指先を掴み取りたかった。
セフィロスの心がザックスの温もりを求めていた。
感じた熱は再びセフィロスの火種を燻らせる。
何故、離れてしまうのか。
何故、離してしまうのか。
愛しているなら、恋しているなら、触れたいとは思うのが常であるはずなのに。
セフィロスのかさついた、それでいて色を失わない唇がザックスの名を呼ぶ。
二人の視線が絡み合うのは自然のことだった。
互いの瞳に姿が映る。
酷い顔をしているのはお互い様だった。
「セフィロス―?お前」
思い詰めた表情をするセフィロスに向かってザックスは腕を伸ばしかけ、止める。
虚空を彷徨う手を掴んだのは誰であろうセフィロスその人であった。
突然の事にザックスは驚きを隠せない。
ひんやりとした彼の掌が自分の熱によって温かさを取り戻していく。
セフィロス、と名前を呼んだ。
何もかもが不確かなこの状況でその名だけがザックスにとっての光だった。
彼だけは、彼に対する思いだけは揺るがないと誓えた。
きっと自分は彼の側で生き、彼の側で生を終えるのだ。
それを不幸だとは思わなかった。
だから、されるがままであった手を握り返す。強く、強く。
セフィロスは一瞬瞳を揺らがせ、思い詰める表情はそのまま言葉を発した。
それはザックスの心を震わせるには充分だった。
「お前のことを思っていた」
「俺を?」
「ああ。お前の言った意味を考えていた」
「どうして」
「分からない。―だが」
セフィロスは逡巡するように目を伏せた。淡い虹彩を守る長い睫が震える。
そうして彼は言葉の稲穂を継いでいく。