私の上に乗り上げる少年の身体はひどく軽いものだった。
「退いて下さい、と申し上げましても言葉通りには動いて下さらないのでしょうね」
溜め息混じりで呟けば彼は形の良い眉を僅かに吊り上げサッと嘲るような笑みを浮かべた。
「お前があの時邪魔しなければこんなことにはならなかったんだから自業自得だよ」
「私には何のことだか分かりませんが」
「邪魔したじゃないか。昼間、何も言わないで僕の部屋を開けた」
「お言葉を返すようですが私はきちんとノックをしましたよ。貴方の仰せの通り3回。
それにあの部屋は執務室であって私室ではないのです。邪魔されるのがお嫌ならあんな所で事に及ぶのは止めて頂きたい」
感情を言葉にすれば頭は冷えていくのだが目の前の彼は違うらしい。
「全部僕が悪いって言うのか」と激昂する瞳が揺らいでいた。
「あれは確かに何を考えているか図りかねますが自分から上司に手を出すような真似はいたしませんよ。どうせ貴方から誘いをかけたのでしょう」
呆れた、という私の感情を見抜いたのかますますその目が剣呑に光る。
それと共に私の腰にかかる力も強さを増していた。
払いのけようとすれば簡単に出来るがそれをしようとは思わない。
「お話をなさるつもりがあるならばそこを退いて下さい。ルーファウス様」
ルーファウス、その名を呼べば彼は喜色の色へと表情を一変させた。
変わり身の速いことだ、とついつい唇から笑みが漏れる。
「何がおかしい」
また膨れっ面に戻りかけた彼は私の名を呼んだ。
アイスブルーの瞳に映るのが私だけだということに何処かくすぐったい思いにかられる。
それを億尾に出さないように注意を払いながら私はもう一度退くよう頼んだ。
それが受け入れられないことを知っていて。
「嫌だ」
ああ。分かっていたとは言え頭が痛い。こうなってしまえば梃子でも動かないだろう。
「ルーファウス様」
「何だ」
「邪魔をしてしまったことなら謝りましょう。ですが何故私の上に貴方が乗り上げているのかその意味が分かりません」
私の問いかけが満足のいくものだったのか彼を落胆させるものだったのか、それは今でも分からない。彼が見せた表情はそのどちらとも取れる笑顔だったのだ。
ただ彼が言った一言は私の思考を止めるのに充分過ぎるものだった。
「私に、代わりをやれと?」
「違うさ。あの男が代わりだったんだ」
僕が本当に欲しいのはお前だ、ツォン。
ぞくりと背筋に電流が流れるような声をいつから出すようになったのだろう。
私はまだあどけなさを残す顔付きに目を見張った。
その反応を予想していたのか、彼は口角だけを持ち上げるといった蠱惑的な微笑みで見返す。
「ルーファウス様、お戯れは―」
「戯れなんかじゃない。何故お前は分からない。知ろうとはしないんだ」
張り上げた声が刹那、震えたような気がした。
親父さんにまた邪険に扱われたらしいぞ、と。
はだけたシャツを着込みながら口にした情報が私にとってこんなに有益になるとは思ってもみなかった。
予想は簡単につけられる。けれど、それは事実に勝るものではないのだ。決して。
世間知らずの副社長。形ばかりの副社長。牙を剥けばいつだって折られてしまう哀れな子供。
傷ついているのだろう。その心をこうした行為でしか発散出来ないとは
「ただ抱いてくれればいいんだ。ツォン」
何と愚かで、何と愛おしい。
「ルーファウス様」
ほっそりとした首筋に手を当てれば滑やかな冷たい体温が伝わってくる。
「貴方を愛しておりますよ」
その言葉は心からのものだった。
けれど彼は違う、というように首を振る。
「私の愛と貴方が考える愛は違うのでしょう」
「なら僕に従え。お前は僕の物だろう」
「ええ。貴方の物ですが私は貴方を傷付けたくないのです。
貴方が思う愛の形を受け入れるには私は些か年を取りすぎました。どうかそれを分かっていただきたい」
「そんなもの分かりたくもない」
にべもない口調と共に私の手は払われた。
背けられた横顔がどんな感情を秘めているかなんていうことは聞かなくとも分かる。
「ルーファウス様」
その顔を見詰めていたその時、脳裏に眼前の見目麗しい少年とは似ても似つかない肉親の姿が残像として蘇る。
『いつかあの方は蛇とも獅子ともなりますよ』
私の言葉に馬鹿馬鹿しいといった風に大口を開けて笑った男は紛れもなく彼の父だった。
『あれはまだ猫にもなりきれぬ子猫、いや子鼠といったところか。獅子にも蛇にもならんよ』
まるで信じていない口ぶりに腹が立ったのは彼を愛していたからだ。
「ルーファウス様」
気付けばその名を呼んでいた。
「分かった。退くよ、退けばいいんだろう」
見当違いなことを言いながら身体をずらそうとする彼の腕を取る。その瞬間、まるで鬼のような形相で私を睨みつける彼に唇を預けていた。
体勢的に辛いものがあるので本当に軽い口付けだったが彼を当惑させるには充分だったようだ。
「な...お前...」
阿呆のように口を開けるこの少年はとても愚かだ。
自分が正しいと、いつだって信じているのにいつだって崩される。
その度にこうして歯を食いしばりながら次の機会を待っているのだろう。
たった一人で。
本当に何て愚かで何と愛おしいのか。
「私は貴方の仰る愛を信じるには年を取りすぎました」
「それはもう聞いた」
「ですが」
小首を傾げる仕草に細い金色が垂れる。その様はまるで天上の天使。
今だけは愛しい私の幼子。
身体を起こし、力の限り抱き締め、耳元で囁く。
「貴方の愛を否定してしまえる程私は達観してないのですよ」
目を見開いた少年に微笑を見せれば彼もまた笑っていた。
「貴方の望むものはこれなのでしょう?」
啄ばむような口付けは彼の闘争心に火を点けたようだった。
一瞬だけ不敵に微笑むと勢いづいた唇が私を襲う。
まさしく噛み付くといった口付けに笑いが込み上げそうだ。
高笑いを思い返し私は一人胸の内で呟く。
今の内に笑っておくがいい。私の子供は猫でも鼠でもない。
彼は確かに眠れる獅子なのだ。
いつか笑い飛ばしたその牙に剥かれる日が来ることを私は想像し、遠くない未来だろうと貪るような舌の動きで感じ取っていた。